タイ・チャクリー王朝の歴史

ラーマ9世(プミポンアンドゥヤデート国王)の崩御を機に改めて、チャクリー王朝の歴史を歴代国王をキーにまとめてみたいと思う。

【チャクリー王朝の成立】
 1767年にビルマの侵攻に遭いアユタヤ王朝が滅亡すると、翌年にタークシンがビルマ勢力を撃退し、破壊しつくされたアユタヤを捨てトンブリーで王位に就きトンブリー王朝を樹立する。トンブリー王朝で中央政府として王朝は存在するものの、各地は王家の直接統治ではなく各軍閥が治めていた。(日本の江戸時代の幕府と大名のような関係のようだ)

 ソムデットチャオプラヤー・マハーカサットスック(後のラーマ1世)もそうした軍閥の一人で猛将として知られていた。ソムデットチャオプラヤーはトンブリー王朝の中でその武功から破格の出世を果たしていく。

 一方でタークシン王は晩年になると精神に異常をきたし、次第に奇行が目立つようになっていく。その奇行ぶりが国民に伝わるようになると、各地の軍閥は次第に王朝からの離反を画策するようになっていく。1782年にプラヤー・サンがタークシン王を幽閉し自らが摂政に就くというクーデターを決行する。そして自らが王位に就くことを画策するが、それを聞きつけたソムデットチャオプラヤーは遠征先のカンボジアからトンブリーに戻り、プラヤー・サンを退位させ民衆の求めに応じてタークシン王を処刑し首都をクルンテープ(バンコク)に遷し自らが王位に就いた。こうして樹立されたのが、現在も続くチャクリー王朝である。

【ラーマ1世】
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 父親:トンディー
 出生:1737年3月20日(アユタヤ)
 死亡:1809年9月7日(満72歳没)
 在位:1782年4月6日 – 1809年9月7日
 王妃:アマリン
 側室:31名
 子供:42人(男子:17名、女子:25名)

 アユタヤ王朝時代からタイは度々隣国ビルマの侵攻を受け、悩まされてきた。チャクリー王朝を樹立し、ラーマ1世が即位してからもビルマは度々侵攻してきたが、ラーマ1世は猛将ぶりを発揮し、ことごとくそれを撃退した。

 ラーマ1世自身はアユタヤ王家の血を引く人物であり、自ら滅亡を目にしたアユタヤ王朝の繁栄の再現を目指したと言われる。そこで三印法を定め、弛緩した仏教サンガの規律を経律を収拾し仏教の教えをもとに国内秩序の基礎を固めていく。

 現在は観光客が多く訪れるワット・プラケオもラーマ1世の建立した寺院である。ここに納められているエメラルド仏は、ラーマ1世がヴィエンチャンを攻めた時に奪ってきたものを安置したものである。

【ラーマ2世】
Rama II of Siam

 父親:ラーマ1世、母親:アマリン
 出生:1767年2月24日(アユタヤ)
 死亡:1824年7月21日(満57歳没)
 在位:1809年9月7日 – 1824年7月21日
 王妃:シースリエン、クントンティッパヤワディー
 側室:51名
 子供:73名(男子:38名、女子:35名)

 ラーマ1世の子で幼名はチムと言った。1782年にラーマ1世が即位するとクロムルワンイッサラスントーン王子と名乗るようになり、1806年には皇太子に即位する。幼い時よりラーマ1世に伴われて戦場に赴く事が多く、ラーマ2世自身も武人として長けていたと言われる。

 1809年にラーマ1世が崩じると、国王に即位した。1813年にはカンボジアがベトナムと手を組み侵攻し、東部カンボジアでの支配力を失う。またビルマも相変わらずシャムの国土をうかがい度々侵攻してきたことから、ラーマ2世の治世前半はこれらの対策に頭を悩ますことになる。

 しかし1822年に領土の西方拡大を狙ったビルマが当時イギリス領であったインド・ベンガル地方に侵攻する。これに激怒したイギリスとの間に紛争が頻発しビルマはシャム侵攻の余力がなくなっていく。(この衝突は1824年に第一次英緬戦争に繋がりビルマがイギリスに占領されるきっかけとなる)

 ビルマの侵攻を気にしなくて良くなったラーマ2世は国内の整備や文化振興に専念できる環境となっていく。特に文化面ではラーマ2世自身も文人として知られ、タイの詩聖スントーン・プーなどの詩人を保護し、貴族を集めて史の競作を行い『クン・チャーン=クン・ペーン』を編纂した。これはタイを代表する文学の一つとなっている。

【ラーマ3世】
Rama III of Siam

 父親:ラーマ2世 母親:リアム・シリサムパン
 出生:1788年3月31日 (バンコク)
 死亡 1851年4月2日 (満63歳没)
 在位 1824年7月21日 – 1851年4月2日
 側室:42名
 子供:51名(男子:22名、女子:29名)

 ラーマ1世の治世下の1788年3月31日に、その初孫として生まれ幼名をタップと名付けられる。幼い時から帝王学を学び、物ごころついたころから、祖父や父に連れられ戦場に赴いている。ラーマ1世が崩御すると、前王朝のタクシン王の子であるカサットラーヌチットが反乱を起こすが、タップ王子がその制圧する。

1824年にラーマ2世が崩じた際、王位継承権は弟のモンクット王子(後のラーマ4世)に与えられていた。しかしモンクット王子はまだ21歳で学業に没頭していたこと、ラーマ2世の晩年にタップ王子が王務を代行していたことから王位継承をめぐって王室内で意見が分かれる。そこで王宮内で投票が行われた結果、タップ王子が37歳で即位し、チェーサダーボーディン王を名乗ることとなった。

ラーマ3世の治世の期間は英緬戦争の期間とほぼ合致する。そのためビルマは対英戦線のみに集中せざるを得なくなりがシャムに侵攻してくることはなくなる。一方でビエンチャン王国(現在のラオス)はトンブリー王朝のタークシン王の時代からシャムの属国であったし、カンボジア王朝もその弱体化は著しかった。そのためシャムの国土防衛は対ベトナムのみに絞れば良くなる。国内を安定させることができたシャムは対清貿易で莫大な利益を上げる事となる。こうして得た利益をもとに軍備の増強をはかりインフラの整備を進めて行った。

ラーマ3世は信心深い国王としても知られ、功徳のため貧困層の人民に食料を配給し、動物を人間の手から解放し、50以上の寺院を建立・修繕した。またラーマ3世には51人もの子がおり、後の王族の礎になっている。またラーマ2世と同様に文人としても名高い王となっている。

【ラーマ4世】
Rama IV of Siam

 父親:ラーマ2世 母親:シースリエントラー
 出生:1804年10月18日 (バンコク)
 死亡:1868年10月1日 (満63歳没)
 在位:1851年4月2日 – 1868年10月1日
 王妃:ソームマナッサワッタナーワディー、テブシリン、パンナライ
 側室:58名
 子供:82名(男子:39名、女子:43名)

1851年にラーマ3世が崩御すると、兄に王位を譲っていたモンクット王子が即位する。王位継承前は僧侶として寺院に属し、経文の研究等を行い経典が書かれている言語であるサンスクリット語などを習得している。その後、キリスト教の宣教師などと出会いラテン語の学んでいる。

仏教寺院に所属しながらも西洋文化と触れた経緯から、即位後は西洋との関係を重視し英国からイギリスからアンナ・レオノーウェンズを家庭教師として招き、子弟に西洋風の勉強をさせている。

また1954年に長年続いていた清への朝貢貿易をやめる一方で、翌年にはイギリスとボーリング条約(不平等条約)を締結し西洋への米の輸出を開始する。これによりタイ中部には運河が建設されるなどし、米の増産がはかられた。現在でもタイは米の大輸出国であるがその礎はこの時代に作られたと言ってもよいほどである。

しかし1868年9月18日に視察先のプラチュワップキーリーカンでマラリアに感染し、その2週間後に崩御する。

【ラーマ5世】
Rama V of Siam

 父親:ラーマ4世 母親:テブシリン
 出生:1853年9月20日 (バンコク)
 死亡:1910年10月23日 (満57歳没)
 在位:1868年10月1日 – 1910年10月23日
 王妃:スナンタークマーリーラット ら4名
 側室:88名
 子供:77名(男子:32名、女子:44名)

 1853年にラーマ4世の子として生まれ、幼名をチュラロンコーンと言った。1868年にラーマ4世の崩御によりわずか15歳で即位する。タイ三大王のうちの一人で今でも国民から人気が高く、街中でも肖像画が飾られたり像が仏壇に置かれたりしている。

 即位後すぐに欧米視察を行い、タイが欧米に比べ立ち遅れていることを実感し様々な改革に着手する。一連の改革は「チャクリー改革」と呼ばれているが、その内容は以下のようなものである

 ・奴隷制度の廃止
 ・各地の王を廃止し、中央集権国家へ移行
 ・官僚制を導入し行政を効率化
 ・議会制度の前進となる国政協議会と枢密院を設置
 ・学校教育を制度化
 ・バンコクからナコーンラーチャシーマーまで鉄道敷設
 ・電話事業の開始

 外交面では当時はイギリスはマレーシアとビルマを、フランスがベトナムを植民地にしていた時代で、シャムも狙われていた。しかしラーマ5世はイギリスにはマレー半島の一部を、フランスにはラオスとカンボジアを割譲し自国の独立を守ることに成功する。

またラーマ5世は側室を入れた妻の数は160人以上、その子供は77人と歴代の王の中では最多となっている。

【ラーマ6世】
Rama VI of Siam

 父親:ラーマ5世 母親:サオワパーポーンシー
 出生:1881年1月1日 (バンコク)
 死亡:1925年11月25日 (満44歳没)
 在位:1910年10月23日 – 1925年11月25日
 王妃:インタラサックサジー ら4名
 子供:1名(女子)

 チャクリー王朝で初めての海外留学者で、イギリスで学生時代を過ごす。帰国後は陸軍大将を務める。1910年に即位すると、父であるラーマ5世のチャクリー改革をさらに推し進め以下のような政策をとる

 ・教育の義務教育化
 ・発電所、水道建設などのインフラ整備
 ・ドンムアン空港、プット大橋の整備などの公共事業
 ・現在の三色旗を国旗に採用
 ・姓氏法を制定し国民に姓を持たせた。
 ・ボーイスカウトを世界で3番目に導入
 ・タイ赤十字の設立
 ・タイ語の語彙不足を補うため単語を作成
 ・華人優遇政策を廃止
 ・国際連盟加盟
 ・多妻制の廃止

 タイの近代化に寄与するような注目すべき政策も多いが財政面に関しては無頓着であったために、国家財政は悪化の一途をたどることになる。また同性愛者であったという指摘もあるが、後継者問題に関してほとんど関心を示すことがなかった。1924年にようやくスワッタナー妃と結婚し翌年に王女が生まれるが、その2日後に崩御する。

【ラーマ7世】
Rama VII of Siam

 父親:ラーマ5世 母親:パッチャリン
 出生:1893年11月8日 (バンコク)
 死亡:1941年5月30日 (満47歳没)
 在位:1925年11月25日 – 1935年3月2日
 王妃:ラムパイパンニー
 子供:無

 イギリスのイートン・カレッジ、ウーリッジ士官学校、フランスのエコール・シュペリウール・ド・ゲールで学び、1924年に帰国すると軍人として働くようになる。ラーマ6世には成人した子供がなかったため急遽王位に就くこととなる。

 1925年の即位後すぐに直面したのは前王の放漫財政が残した巨額な負債問題であった。ラーマ7世はこれを解決すべく、王室費用を1/3に切り詰めたり、官僚の大規模なリストラを実施し事態の打開を図った。しかし1929年に世界恐慌が起こるなど、不運も重なり状況は好転せず逆に巨額の財政赤字に陥る。このことが後の立憲革命の下地となっていく。

 そんななか、1927年にプリーディー・パノムヨンを中心として人民党が結成されると、社会の閉塞感・不満感に乗じて勢力を拡大していく。そして1932年ラーマ7世が療養のためにフアヒンに滞在中に、クーデータ(立憲革命)を決行しラーマ7世に、クルンテープ(バンコク)に戻った上で立憲君主制への移行を迫る。最終的にはラーマ7世はこれを受入れ人民党が作成した憲法を承認し、約150年続いた絶対王制が崩壊することとなる。

 立憲革命を受けてプラヤー・マノーパコーンニティターダーがタイの初代総理大臣に就任する。新憲法では王制は廃止せず法律施行等には国王の承認を必要としていたため、ラーマ7世はこれを利用し自分の意にそぐわない事があると政権に干渉した。そのことにより政権内は混乱し、次第に文民勢力が弱体化し軍部が力を強めていく。そして1933年6月20日にクーデターが発生し、プラヤー・パホンが首相に就く。

 王族たちは民主的な政治をパホンら軍事政権に迫るが実現せず、ついには1934年にラーマ7世は目の病気療養を名目としイギリスへ逃亡する。法手続きに国王の承認が必要であるのはそのままであったので、パポン政権は承認手続きのためにイギリスまで行かなければならなくなり何度となく帰国を要請するが、ラーマ7世は拒否し続けた。その後、いつまで経っても民政に移行しないパポン政権への抗議の意を示すべく1935年に自らの意思で退位した。これによりラーマ7世はチャクリー王朝で唯一の生前退位者となる。

 退位後は不遇なままイギリスですごすが1941年に死去し、ようやく遺骨がタイに戻ったのはラーマ9世の治世の1949年になってからであった。

【ラーマ8世】
Rama VIII of Siam

 父親:ソンクラーナカリン王子 母親:シーナカリン
 出生:1925年9月20日 (ドイツ)
 死亡:1946年6月9日 (満20歳没)
 在位:1935年3月2日 – 1946年6月9日
 王妃:無
 子供:無

 ラーマ5世の69番目の子である、ソンクラーナカリン王子の長男としてドイツ・ハイデルベルクで生まれる。通称をアーナンタマヒドンと言い、マヒドン国王などと呼ばれる。1929年にソンクラーナカリン王子が亡くなると、スイス・ローザンヌに移り修学する。

 1935年にラーマ7世が退位すると、国会決議によりアーナンタマヒドンの王位就任が決定され、わずか10歳で即位する。しかし即位後もすぐにスイスに戻り学業を続け、シャムは国内に国王がおらず王務は摂政が代行する状態が常態化し王位は傀儡化が進んでいく。

 1945年に第二次世界大戦が終結とともに学業を終え帰国するが、翌年に自室で額から後頭部にかけて銃弾が貫通した状態で発見された。当局は国王殺害にかかわったとして3名を逮捕・起訴、裁判で死刑が確定し執行されたが、今なおその死には大きな疑義があるといわれている。

 王室に対する不敬罪があるタイでは、ラーマ8世の死に関して語ることもタブーとされていることもあり真相は謎のままとなっている。ちなみにラーマ8世の治世の1939年に国名がシャム(Siam)からタイ王国(Thailand)へ変更となった。

【ラーマ9世】
Rama IX of Siam

 父親:ソンクラーナカリン王子 母親:シーナカリン
 出生:1925年9月20日 (アメリカ・マサチューセッツ)
 死亡:2016年10月13日 (満88歳没)
 在位:1946年6月9日 – 2016年10月13日
 王妃:シリキット
 子供:4名(男子:1名、女子3名)

 通称プミポンアドゥンラヤデート国王。日本ではプミポン国王と呼ばれるが、タイではそのような略し方をすることはない。ソンクラーナカリン王子の二男としてアメリカ・マサチューセッツで生まれ、スイス・ローザンヌ大学に進学する。

 1946年に兄のラーマ8世の急死に伴い18歳で国王に即位するが、すぐにローザンヌ大学に戻り1952年に帰国した。1950年にはフランス滞在中に出会った、シリキット王妃と結婚する。

 プミポンアドゥンラヤデート(以下、プミポン国王)の即位当時のタイ王室は苦境の時代であったといえる。ラーマ7世の時代の1932年に起きたクーデター(立憲革命)により、タイの政治制度は絶対王制から立憲君主制へ移行したが、ラーマ7世自身は英国へ逃亡し、その後に退位するという経緯を受け王室は求心力を失っていた。またラーマ8世の不可解な死も、それに拍車をかける結果となった。プミポン国王即位の段階では、国王は満足な権限もなく象徴的な意味合いが強かった。

 当時のタイ政治は混乱の時期である。第二次世界大戦の終結も間もない1947年11月8日、クーデタにより政権が倒され軍部はアパイウォンを首相に擁立する。しかし翌年には軍部から辞任を迫られ、完全に軍政へと移行することとなる。そんな政治状況下にあって聡明なプミポン国王は、即位当初は政治との間合いを慎重に推し量っていたようだ。

 1957年9月16日と翌年10月20日の二回の軍事クーデターを経て、クーデターを主導したサリット・タナラットが首相となる。たび重なるクーデタで民心が離れたサリット政権が目を付けたのが、権限はないものの権威はある王室の存在だった。サリットは「タイ式民主主義=国王を元首とする民主主義」と謳い、弱体化した国王・王室の威信回復に取り組んだ。その上でサリットは、国王の全権を得て自らが国民を指導するという手法で統治を進めていく。プミポン国王もそれを受入れ権威はあるが権力がない王室と、権威はないが権力がある政権との二人三脚が始まる。1963年にサリットが死去し政権をタノーム・キッティカチョーンが引継ぎ、1973年まで軍政が続くことになる。

 その間、プミポン国王は表だって政治行動をすることは避けつつ、軍政と市民運動に対して硬軟両様で対処をする。また「王室プロジェクト」と呼ばれる農業をはじめとした地方経済の活性化を推し進めるほか、私財を投じて農村開発や食糧難問題の解決のための各種のプロジェクトを自ら推進していく。地方視察も精力的にこなし、自ら泥濘に入り指導するなど国民目線で、国民に寄り添う姿勢を示していく。そんなこと通じ失墜していた王室の地位を回復しその求心力は軍をしのぐようになっていく。

 1970年代以降は直接政治に干渉はしないのの、官僚・軍部など利害関係の調停役として采配を振るい、困難な情勢の打開収拾に手腕を見せるようになる。その端緒となるのが1973年に起きた「血の日曜日事件」である。国王は民主化を求める学生側の立ち、タノーム政権の失脚と言う結果を生む。また1992年の「暗黒の5月事件」では、民主化グループに対する軍事政権の武力弾圧によってバンコク都内などが流血の事態に陥るが、プミポン国王はスチンダー首相と、民主化運動グループの指導者チャムロンを玉座の前に正座させ、「そんな事で国民のためになると思うか、双方ともいい加減にせよ」と叱りつけ、騒乱を一夜にして沈静化させた。そんなことを通じてプミポン国王はカリスマ的な支持を国民から得ることとなる。

 2006年6月には即位60周年を祝う式典が日本の天皇・皇后両陛下をはじめとする各国の元首を招いて行われたが、国民は国王の誕生色である黄色のシャツを着て盛大に祝った。しかし2007年に脳血流障害で入院して以降は入退院を繰り返すようになり、公の場に姿を現す機会が減っていく。2010年の赤シャツグループと黄シャツグループが対峙した「暗黒の土曜日」事件や、2014年の軍事クーデターでもプミポン国王が公に言葉を発することはなかった。

 2016年10月11日にタイ王室はプミポン国王の肝臓と腎臓の機能が低下し同月8日に血液透析などの処置を受けたものの血圧が下がるなど容体が不安定であると発表した。その報を受け多くのタイ国民が国王の回復を祈って入院先のバンコク・シラート病院の記帳所に押し寄せたが、人々の願いはかなわず、2016年10月13日に88歳で崩御した。

 プミポン国王の在位期間は70年4カ月にもおよび、世界的に見ても異例の長さと言える。近世以降ではスワジランドのソブーザ2世(在位82年254日間)が最長であるが、それに次ぐ長さであった。また在位期間長さだけではなく、即位当時に傀儡化して王室の存在を引き上げ、タイ政局の重要局面で果たしてきた役割はやはり大きいと言える。プミポン国王亡きあと、タイ社会は大きな変革を強いられるのかも知れない。

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