久留里城は現在の君津市久留里の山間部にあった城である。その築城に関しては諸説あり確定的な説はない。もっとも有力な説は甲斐源氏の分家で上総武田氏の始祖である武田信長が康正2年(1456年)に築城されたというものであるが、武田信長の治世に久留里城が存在していたことは確かなようである。
その後、内紛などで上総武田の勢力が衰えると天文年間末期の1550年頃には里見氏の支配下となり、久留里城の正確な記録が残るのはこれ以降の事となる。戦国時代は一貫して久留里城は里見氏の属城であった。しかし1590年(天正18年)の小田原の役の際に豊臣秀吉の参陣の命に従わなかったことから、秀吉の怒りを買い里見氏は上総の地を没収され、所領は安房のみとされた。これにより久留里城は里見氏の支配から離れ松平(大須賀)忠政の居城となる。
1601年(慶長6年)には土屋忠直久留里藩に転封となり城主となるが、1679年(延宝7年)には土屋氏は改易となり久留里城はいったん廃城となる。その後、1742年(寛保2年)に譜代大名の黒田直純が久留里城を再建すると、黒田氏が幕末まで久留里の地を治めることとなる。
現在では1979年に模造された鉄筋コンクリート製の天守閣が建っている。規模は、それ程大きくないものの白壁の美しい建物となっている。また二の丸のあった場所には君津市立久留里城址資料館が建ち、久留里城のみではなく君津市の郷土史に関する展示を行っている。
久留里城の作りは自然の標高差をうまく利用して作られており、天守閣跡からは君津市内を一望する事が出来る。また見晴らしの良い場所には、敵を迎撃するための曲輪(くるわ)が設けられ久留里城が強固な防衛拠点であった事を伺い知ることができる。
訪れたのが真冬であったので木々の葉がみな落ちた状態であったが、周囲には様々な木々が植えられている。桜の季節であればより一層奇麗な場所では、そう思わせる城であった。
駐車場から本丸までの標高差は90m。急峻な地形を利用した城です。
二の丸跡には君津市立久留里城址資料館が建ちます
君津市立久留里城址資料館の前には地元の名士、新井白石の像が立ちます
場内の案内図を見ると山の中に建物が点在していることがわかります。
(画像クリックで拡大表示)
二の丸の位置から下を見るとこんな感じ。写真中央を横切る道路は内堀跡、その手前の田んぼが三の丸跡です。
(画像クリックで拡大表示)
二の丸を出て本丸に向かいましょう。道中の道はこんな感じ。左右には桜などの木々が並びます。
こちらは曲輪(くるわ)跡。中央のトイレが邪魔ですが奥の木の向こうは崖になっていて、周囲を見渡せます。
ようやく本丸に到着です。白壁の美しい城です。
天守閣の隣には盛り土があります。実は復元前の天守閣はこの盛り土の上に建っていたのです。
天守閣からは君津市内を見下ろすことができます。
ちなにみこの日のアシもこの子でした。一日の走行距離はメータ読みで140kmほどでした。
私はバイクで行ったと聞いてびっくりしました。
久留里城は築城された時に雨ばかり降っていたので
雨城と言う別名があります。桜の頃はそれはそれは
綺麗なお城ですよ。
駐車場から天守閣まで登るのは大変だったでしょう。
海抜145mなのに
随分と高い所にあるような景色ですね
こういうちょっとしたハイキング(足で歩くかはどうかは別)や
ショートトリップって
大阪市内ではほぼ散策になってしまいますが
月に1度はしてみたいですね
う~真冬に単車ですか?
鼻水ジュルジュルになりませんでした?(笑)
いはちさん
雨城と言う別名があるのは城の展示にも記述がありました。
桜の時期の久留里城やはりきれいなのですね。
片道2時間ほどですから、それほど遠くはないですね
あさとさん
このような眺望だけに早くから城が築かれたのでしょうね。
大阪ですと箕面にいくような感覚かと思います。
このようなショートトリップも楽しいですね
餌釣師さん
鼻水ジュルジュルにならないようにマスク着用での
バイク利用です。排気ガスの吸引防止の観点からも
マスクは必須アイテムです。
原付で140Kmの走行は凄いと思います。
ク・ホリンさん
普通に考えると140kmを原付で一日で走破するというのは
あまりないですよね。でも私の場合、原付で結構遠くまで行ってしまいます(笑)