郭沫若(1892年11月16日~1978年6月12日)は清朝下の1892年に四川省楽山市で生まれた政治家である。1914年に日本に留学し日本語と医学を学んだ後、中国に戻り上海で国民党に参加する。しかし蒋介石と対立したことから、共産党に鞍替えし蒋介石から追われる身になった。そして蒋介石からの追跡から逃れて、日本へ亡命し中国史研究に没頭した。
しかし盧溝橋事件を契機に、日中戦争が勃発すると郭沫若は妻子を日本に残して帰国する。そして中華人民共和国成立後は、文化大革命の荒波を巧みな処世術で乗り越えながら、全国人民代表大会副委員長(副首相に相当)にまで登りつめた人物である。
そんな郭沫若が日本亡命時代に居を構えたのが我が市川市である。沫若は何度か市川市内で転居をしているが、最後に移り住んだのが市川市須和田であった。残念ながら当時、沫若が住んでいた家は、度重なる真間川の氾濫で老朽化が進み取り壊さざるを得なくなってしまった。しかし当時の家の建材を可能な限り活かしながら移築・復元したのが郭沫若記念館である。
中国共産党の要職を歴任した郭沫若であるが、小生が着目するのはその政治生活ではなく文化人としての側面である。特に書の分野は専門家の間でも評価が高く、小生も書作家として好きな文人の一人である。郭沫若記念館にも対聯の作品が展示してあるので訪れる機会のある方は是非、ご覧になっていただきたいと思う。
施設名称:市川郭沫若記念館 所 在 地:市川市真間5-3-19 入 場 料:無料 開館時間:9:00~17:00 ※入館は30分前まで 駐 車 場:無 アクセス:京成市川真間駅より徒歩約16分 ※データは2011年11月現在のものです |
移築された家屋は以前のものと比べるとかなりきれいになっています。
建物の中は純和風な建築です。
郭沫若を偲ぶ資料の展示も行われています。
こちらは郭沫若が子供時代に来ていた服。清朝時代の様式ですね
庭は整備中といったところでしょうか
こちらは郭沫若が書斎として使用していた部屋。
床の間には須和田を離れる時に詠んだ詩の軸がかかっています。もちろん郭沫若の筆になるものです。
こちらの扁額の書はなかなかの傑作です。
こちらの展示は少し変です。二つの軸を異一つの作品として作る対聯という様式を意識しての展示のようです。しかし対聯の場合は左右の軸で韻を踏んだ文言を書かねばなりません。しかも左右の軸で作風が異なっており書かれた年代も違うようです。
清朝末期の動乱の時代に翻弄され
そして勝ち残った組の方なんですね
書に関しましては
見かけによらず私・・・高段持ちなんです
あまり行書は得意ではありませんので
なんとも解らないことがたくさんあるのですが
対聯の両軸の筆跡の勢いが違うのはわかります
多分意識的にそうしない限りは
熟度の違いが表れていると思います
しかし
細字の軸に関しましては見事ですね♪
政治的には冷たい関係が続いていますが、日中間では多くの有名人らが友情を築いてきましたよね。
孫文しかり、魯迅しかり・・・
彼らが残してきた逸話を拝見するに、政治の世界に翻弄されながらも、個人対個人ではとても深い絆で結ばれていたのだなと思います。
国民党員から全人代に・・すごい処世術・と言ったら
失礼になりますね。
その様に生きなければならなかった時代があったのですから
仕方ありませんね。
この人の事は全く知らなかった私です。
日本にいた、日本語ができることでよくあの文革を生き残れましたね。
きっと世渡りがうまかったんだろうなあ
あさとさん
対聯の軸に関してはどちらも真筆に違いないと思いますが
おそらく書かれた年代が違うのだと思います。
ちなみに私の専門は篆書だったりします
餌釣師さん
政冷経熱と言われて久しいですが、現在の状況で政治的に
中国と親密になるのは難しいでしょうね
日本にゆかりのある中国の文化人は多いですが
民間レベルではよい関係にありますからね。
最近ですと艾未未氏などでしょうかね
いはちさん
まぁ処世術に長けた人だったのだと思います。
文革の動乱期は彼のその処世術がなければ間違いなく
身柄を拘束されていたでしょう。
私も書家として側面がなければこの人を知ることはなかったと思います。
鉄路迷さん
文革期の彼の言動を見ると、そこまで露骨に体制に尻尾を振るか
という感もあります。そうやって風向き読み、読み違えなかった
からこそ、要職に登り詰めることができたのだと思います。