市川市にある地名が最初に文献に登場するのは、奈良時代の701年(大宝元年)の事である。この年、長年整備されてきた律令の整備がほぼ完成し、大宝律令として文武天皇により制定された。いわゆる律令政治の始まりである。
律令政治下では、各国に国府が設けられ地方行政の拠点とされた。下総国の国府は、現在の市川市国府台におかれた。こうして国府台の地名が歴史に初めてその名を刻まれることとなった。
741年(天平13年)に聖武天皇によって、国分寺建立の詔が出されると各国府に国分寺、国分尼寺を一つづつ建立されることとなった。この詔によって現在の市川市に建てられたのが、下総国分寺(正式名:金光明四天王護国之寺)と下総国分尼寺(正式名:法華滅罪之寺)である。
下総国分寺は現在も、国分寺と言う名称で当時とほぼ同じ場所に残っている。建立当時は法隆寺式伽藍配置で建てられていたようである。昭和40~41年には発掘調査が実施され、現在の本堂の床下から東西31.5m、南北19mの何層にも土を固めた金堂の基壇が発見された。さらにそこから北西40mにある墓地内には講堂の基壇、また金堂の基壇から西へ39mのところに一辺が18m四方の方形の塔跡の基壇が発見されて、当時の寺の様子が判明する事となった。
一方、下総国分尼寺は下総国分寺の北西500mの位置にあった事が昭和7年に行われた発掘で判明した。この地はそれまで国分寺跡と考えられていたのであるが、この時の発掘で底部に「尼寺」と墨書された土器が発見されたことから、この地が国分寺跡ではなく国分尼寺跡であったことが判明した。現在ではこの地は公園として整備されている。
奈良時代の遺跡と言うと奈良県に行かないと、見れないものと思いがちであるが意外に身近なところで、目の当りにする事が出来るものである。
施設名称:国分寺 所 在 地:市川市国分3-20-1 入 場 料:無料 駐 車 場:有(数台分) アクセス:JR総武線本八幡駅北口から高塚行きバス ->「曽谷」下車徒歩10分 ※データは2011年11月現在のものです |
国分寺の位置は上の通り。国分尼寺もすぐ近くです。
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まずは国分尼寺跡から。現在では公園になっています。
碑が建っていますが、随分と汚いです。。。
発掘された、金堂と講堂の礎石が復元されています。
国分寺へ移動。こちらは現在でも立派な寺院となっています。
本堂を正面から
鐘楼はごく一般的なものです。
植込みの中には発掘された建立当時の礎石が残されています
境内の銀杏も立派です。
安房の国分寺よりも小さいかな?と思ったら
国分寺跡はあるのですね。
当時国分寺を建立するのに同じくらいの大きさに
なるように造ったのでしょうか?
この辺ってあまり行かなかった場所ですね。
関東のこの地まで
律令制度による統治が行き渡っていたことは
確か習った記憶がありますが
案外近畿地方より国分寺が残っていることに不思議を感じます
こちらはなんか色々その後途絶えたり変わったりしたところが多いようです
関東にそれなりの規模の集落がそんな時代からあったんですね・・・
でも良く考えると確かに縄文時代の貝塚なんかも発掘されているのであった事はあったんでしょうが、何か不思議な感じがします。
でもまさかその当時の人が将来ご近所に都が移ってくるとは思わなかったでしょうね(笑)
いはちさん
安房国分寺も残っているようですね。
国分寺の規模はある程度決まっていたものと思われますが
いずれも国府のある場所の近くに国分尼寺とセットで建立されたようです
下総国分寺は住宅街の中にありますし、周囲の道も狭いので
市内でも知らない人が結構いると思います。
あさとさん
近畿の場合は合戦の場になったことも多いのでこういったものも
焼失してしまう事もあったのではないでしょうか。
都から遠く離れた下総の地で、律令政治の史跡がこのような形で
残っているのは興味深いですね
餌釣師さん
確かに当時の人々は天皇陛下がこんな近くに住むなんて事は
考えてもみなかったでしょうね。
歴史の授業で習った事がこうして身近に感じられるのは
なかなか楽しいです