現在の市川市行徳地域は、徳川家康により天領と呼ばれる幕府の直轄地とされた。家康がこの地を重視したのは、この地で製塩業が盛んであったことが影響している。
徳川幕府は現代風に言えば、軍事政権である。その軍事政権が重視するのはやはり軍事物資・兵糧の調達であり、塩も大切な兵糧の一つだったのである。寛永8年(1631年)に家康は現在の今井橋付近で、渡し船による江戸から下総への渡船を許可する。これが大正元年まで続いた今井の渡しの始まりである。
翌年の寛永9年(1632年)には、行徳で生産された塩を直接江戸へ運搬するために、江戸川から中川を経由し隅田川に至る運河を作らせ、下総国、行徳河岸から日本橋小網町を往復する航路が開発される。行徳の江戸川岸に残る常夜燈は、そんな江戸川航路を夜間に照らすために、文化9年(1812年)に造られた燈台である。近年、スーパー堤防の整備の際に別な場所に移されていたが、2009年12月に元の場所に戻され、現在では周辺は常夜燈公園として整備されている。
江戸時代の行徳は製塩業の他にも宿場町や寺町として栄えていたようである。当時は「行徳札所」と呼ばれる三十三ヶ所の観音霊場があり、江戸住民ばかりでなく佐倉、印西、成田、千葉など下総各地から巡礼が訪れていた。またこれらの巡礼者を相手にした宿場も営まれて、賑わっていたようである。
当時の行徳で盛んであった産業は以下のような地名にも、その名残を見ることができる。 ・製塩関係:本塩、塩焼、塩浜 ・宿場関係:伊勢宿、下新宿
昨今は地町村合併の影響などで慣れ親しんだ地名が変わったりしているが、地名というのはこのように歴史の証人という側面もあるのである。
常夜燈はこちら。本シリーズでは珍しく市の南部です。
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江戸時代末期の元禄絵図によると当時の市川南部はこんな感じです。
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現在の地図と重ねると赤線が当時の海岸線のようです。
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堤防工事で移設されていた常夜灯も元の位置に戻りました。
常夜燈が造られた年が刻まれています。
現在はスーパー堤防も完成し常夜灯公園として整備されています。
今のチーバくんと昔のチーバくんは形が違うという事ですね(笑)
しかし今にして思うとよくもここまで埋めたものだと思います。
私が子供の時分に、浦安に引っ越した友人がおりました。
引っ越した先の家はもともと海岸線の近くだったのですが遊びに行くたびに海が遠くなり、最後は歩いて行けず友人の父親に車で海まで連れて行ってもらった記憶があります(笑)
行く度に風景が変わる・・・まるで上海みたいですね。
行徳と言えばやはり海の近く、というのが私の子供のころの
イメージですね。
それにしても千葉県はこんなに広くなったのですか~
まさか ここにも今日子ちゃんと一緒に_?
常夜灯の地図上の位置が川岸ではないようですが
常夜灯公園が堤防沿いにあるわけではないんですね
でもこうしてみますと浦安市と言うのは
千葉と言うより東京と言う感じですね
餌釣師さん
団塊世代以上の人に話を聞くと、子供の頃はJR総武線に乗っていると
車窓から海がチラチラ見えたそうです。
今では総武線から海を見ることは殆どできませんのですごい範囲を
埋め立てたものですね。
地図にありますように浦安も江戸時代から陸地だった場所と
近年になってから埋め立てた所がありますので、チーバくんの形も
違うという事になりますね。
ただ近年になって埋め立てた場所は、先の震災で液状化の被害が
酷かったようですが
いはちさん
行徳は私も海の近くと言う印象を持っていますが、だいぶ海岸線が
遠くなってしまいました。南行徳にコロプラのスポンサーの海苔屋さん
がありますが、海が近かった時代の名残りですね。
こちらは市内ですので、移動の差異は今日子ちゃんと一緒jになります。
あさとさん
市境を明確にするために赤線を引いていますが、その線のせいで
川の位置がわかりにくくなってしまいましたね。
常夜灯の位置の左の赤線が、江戸川の位置と一致します。
常夜灯の写真にあるように残っている場所は川沿いになります。
市川や浦安の住民は職場や学校が都内と言う人も多いので
千葉県民には千葉都民と揶揄されることもあります(笑)