江戸時代の行徳地域に関しては、今井の渡しに関連した2つの悲話が残されている。ともに市内に塚が残っており、その悲話を語り継いでいるので、本日はそんな悲話を紹介したいと思う。
「ねね塚」の悲話
生実領主・森川半弥の家臣であった久三郎は、腰元(奥方の雑用係り)であったイネと江戸へ駆け落ちをする事を決意する。禁制を犯して江戸へ運ぶ船頭がいない中、やっとのことで船を出してくれる船頭を探し出す。しかしいざ出発と言う段になり、事が露見し二人は渡し場の南にあった刑場で処刑されてしまう。
二人の遺体は処刑後に二人の遺体は刑場の隅に埋められていたが、それを哀れに思った延命寺の和尚が埋められた場所に石地蔵を立て、人々はそれをねね塚と呼んだ。しかしこの地蔵は首と胴を別々に作ったため、何度首をのせても落ちることなった。そのため別名「首切地蔵」とも呼ばれることとなった。近年になってねね塚は再建され、かつての場所に安置されている。
「おかね塚」の悲話
江戸の世の吉原に「かね」という遊女がいた。彼女は製塩に使う燃料を運ぶ船頭の一人と親しくなり、夫婦になる約束を交わした。年季が明けた、かねは船頭を追いかけて下総国押切村(現在の市川市押切)へやってくる。しかしいくら待っても船頭は現れず、ついにかねは病に伏して亡くなってしまった。そのことを聞いた吉原の遊女達が、かねを憐み建てたの「おかね塚」である。おかね塚は現在も地域にある小さな共同墓地の一角に残されている。
今井の渡しに関して、現在も言い伝えられている話は以上の通りである。このような話が残っているのも江戸時代に行徳地区が栄えていた証拠と言えるであろう。
※ともに残っているのは、塚≒墓ですので写真の掲載はなしです
こういうお話は
何らかの戒めか反体制の叫びが含まれていることが多いのですが
ねねの方は反体制
かねの方は戒めなんでしょうか
う~ん
前者は夜中にこっそりと川を泳いで渡る事は出来なかったので
しょうか?と思ってしまいますが、当時の体制ではそれも
困難な事だったのでしょう。
奥方よりも雑用係を選び世を捨てる覚悟をしていたのに・・・
後者は男が悪い・としか言いようがありませんが
今の世の中では騙された方が悪くなっちゃうのでしょうか?
今は良い時代だと思っているのですが、昔と比べて
私たちの未来ももっと素晴らしいものなのでしょうね。
いつの世も色恋はすべての価値観を逆転させてしまうくらいのエネルギーを発揮してしまうものですね。
私にとっての教訓としては、そうならぬ為に自分の気持ちを全ては開放せず、どこかに冷静な部分を残しておかねばなりませんってとこかなぁ。
でもこれは相手あっての事。
お互いが同じベクトルを向いて行動せねばなりません。
記載の2話4名の中では唯一後者の船頭だけが冷静でいられたのでしょう。
でもこの船頭も相手を本気にさせてしまった時点で駄目ですね。
あさとさん
戒めとか反体制ということは考えてみませんでしたが
確かにそういう側面はあるのかもしれませんね。
いはちさん
泳いで渡るには、、、少々川幅があるかもしれませんね。
時代は変わってもこういう話は多かれ少なかれあるのでしょう。
ただ、現代の話が後世に残ることは少ないかもしれませんね
餌釣師さん
まぁそのあたりの話は器用に立ち回るのは私も難しいと思います。
こう見えて色恋には真面目なんですよ ww
でも確かに二人のベクトルが同じ方向を向いていないと
悲話になってしまいますね