アムナートチャルーンについて – タイ・イサーン冷涼録 Vol.30 –

訪問先のアムナートチャルーンについて、前回の訪泰の際の記事でもきちんと紹介していませんでした。タイの地方都市でもチェンマイやチェンライ、カンチャナブリーと言っ有名な街と違って、アムナートチャルーンについて知らない人も多いかと思います。そこで今回はアムナートチャルーンの概要について書いてみたいと思います。

タイも日本と同じく国土を「県」という行政単位で分けています。日本の1.4倍ほどの国土を有するタイですが、その中に75の県がおかれています。アムナートチャルーン県は、その中でも比較的新しい県で、1999年にウボンラチャターニ県から分離独立してできた県です。


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上の地図の赤い部分がアムナートチャルーン県になります。タイ東北部のラオス国境近くに位置し、3,161平方キロメートルほどの面積を、7つの郡(アンプー)に分けています。アンプーの下には56の町(タンボン)と、653の村(ムーバーン)があります。ムーバーンの数で言うと33番目に多い県ですので、タイの中でも中規模の県であるといえると思います。


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アムナートチャルーン県の7つの郡割り。
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県の主な産業は農業で、多くの県民が稲作を中心とした農業に従事します。タイ中部以南では一年に2回稲を収穫する二期作を行っているところも多いですが、アムナートチャルーンでは日本同様に年に一度の稲作を行っています。そんなこともあり他のタイ東北部の都市と同様に、タイの中でも決して裕福とは言えない地域となります。そのことを反映してか、電気の普及率は高いものの水道、ガスといったインフラの整備は充分でないところも多くあります。

しかし一方でタイ古くからの風習が根強く残っている部分もあります。元来は年寄りを敬い日頃の感謝の意を示す行事であった、ソンクラーンはバンコクなどでは大騒ぎをするだけの本来の意味を見失った姿になっています。ところがアムナートチャルーンでは昔ながらの伝統的なソンクラーンの姿を見ることができたりします。この様子は前回の訪泰の際に記事にした通りです。

そのほか伝統工芸としてシルク織なんかの名産品があったりします。こちらももともとは農家が農作業の合間に作っていたものが名産品となったようです。そんな古き良き伝統を残した、街に今回も滞在することになりました。

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アンナ―トチャルーン中心部は商店が立ち並び車も多いです。

AMnatcharoen

こちらが一番の中心部。東京でいえば数寄屋橋交差点といったところでしょうか。プミポン国王の肖像がありますね

AMnatcharoen

肖像をアップにしてみるとかなりお若い時のお姿のようです。日本刀を持っているところが親日家という事を表してるようですね

AMnatcharoen

滞在先の村はこんな感じでのどかな風景です。


6 responses on アムナートチャルーンについて – タイ・イサーン冷涼録 Vol.30 –

  1. あさと より:

    今タイでは
    国王様の肖像があった所に
    シリントン王女の肖像が替わりにかかるようになっています
    バンコクと田舎では違うのでしょうけど
    ほぼ寝たきりの国王様の加減次第では色々おこりそうですね

    次期国王も皇太子の不人気はどうしようもない状態ですし
    かと言って立太子してるわけです
    また皇太子の第1妃は現王妃の姪で
    その間には王女しかいません
    第2妃との間に王子がいるので
    そのあたりのことも王室内でややこしい争いが出そうです
    でも朝鮮と違って
    タイはマイペンライですからね

    1. ま~く より:

      あさとさん

      バンコクではシリトーン王女の肖像が多くなってきましたが田舎町ではまだまだプミポン国王の肖像が多いです。

      ワチラロンコーン王子は1974年に、シリトーン王女は1977年に王位継承者の資格を得ていますが、本来は国王が次期国王を指名することになっています。しかし現在の状況を考えれば現国王が後継指名をすることは後継指名をすることはこんなんでしょうから、最終的に枢密院にゆだねられることとなります。そうなると枢密院の議長は陸軍出身の人物ですからね・・・

      ワチラロンコーン王子は2014年12月に3番目の妃であるシーラット妃と離婚しましたが、その間にできたティーパンコーン王子の動静が伝えられる機会が増えています。母親は王籍をはく奪されていますが王子は王籍を保持しています。ちなみに2番目の妃であるスチャーリニー妃との間にできた子供に関しては一名の王女を除いてすべて王籍をはく奪されてしまっています。

  2. いはち より:

    まあ、私の子どもの頃は房州でも電気は来てたけど
    井戸のある家は井戸水が使えたのですが、共同の水くみ場
    みたいなのがありましたね。プロパンガスなど無くて、夕餉の支度は
    薪を燃して釜で飯を炊いていました。今となっては懐かしいのですが。
    ちょっと見には30年前の中国無錫や杭州みたいな感じです。
    古き良き伝統・・いつか変わってしまのでしょうか?
    なるべく残って欲しいですが。

    1. ま~く より:

      いはちさん

      日本もそのころはまだインフラ整備が行き届いていないところもあったのですね。生活が便利になるのは歓迎すべきことですが、良い点はいつまでも残っていってほしいですね

  3. 餌釣師 より:

    「北の国から」のようですね。
    まぁ水は掘るなり、沢から引いてくれば良い。
    火は無ければ無いでもなんとかなる。
    まぁ電気も同様・・・なんでしょうが一番インフラ投資的には安く済むのでしょうね。
    また電気は電熱線使えば調理用の火の代わりにもなりますし、まずは電気が通るのは解るような気もします。
    携帯電話の普及も有線でないという事が大きかったんでしょうね。

    1. ま~く より:

      餌釣師さん

      先般の熊本の地震でも復旧に最も時間がかかったインフラがガスだったことでもわかるようにガスの整備は時間がかかりますね。水道管は穴が開いていても水が漏れるだけですがガスの場合は漏れれば事故に直結しますので慎重に作業を進める必要があります。

      私の滞在先で固定電話があるという家庭はなくすべての世帯で、携帯電話を使用していました。いまなんかアフリカのマサイ族なんかも携帯電話を持っていたりするようですが、そういう意味では携帯電話の発明ってすごいものなんだなと思ってしまいます。

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