軍事政権である江戸幕府は、防衛上の理由から江戸川に橋を架けることを認めなかった。そのため江戸川を超えるためには船を用いることになる。
寛永8年(1631年)に家康が今井にて渡船による往来を許可した話は前回書いた通りである。しかし今井の渡しは住民たちが自由に往来できるという代物ではなかった。渡し船は江戸防衛の観点から幕府の管理下に置かれ、その利用は厳しく制限があった。
幕府は江戸住民が下総国にわたることは許可したが、下総国の住民が江戸へ渡ることは原則禁止とされた。また江戸住民であっても、女性が渡しを利用することは、厳しく制限された。誰しも歴史で習ったであろう「入り鉄砲に出女」の規制である。
そんな今井の渡しであるが、実は家康自身も利用している。家康の趣味の一つが鷹狩であったことは良く知られているが、鷹狩に向かった場所は現在の千葉県東金であった。江戸城を出た家康一行は、今井の渡しで江戸川を渡り行徳を通過して、船橋村に建築した御殿で最初の宿を取った。
その際に家康一行が行徳で通った道は、権現通りと呼ばれ現在でも残っている。自動車で通るのは非常に困難な狭い道であるが、寺院を縫うようにクネクネとした道が続いているのを見ることができる。
今井の渡しがあったのは現在の今井橋付近です。
(画像で拡大表示します)
権現道は道幅はかなり狭く自動車がギリギリ通れる程度
細くクネクネした道の両脇には民家が立ち並びます。
このあたりは寺院も多いです。余談ですが左の妙覚寺は祖父の13回忌法要を行った寺です。
今井の渡しがあった場所には、そのことを示す看板が建ちます。左奥の青い橋が今井橋です。
ほほ~ 昔だったら私は東京に遊びに行けなかったのですね。
房総からの出女を厳しく取り締まったのは
諸大名の家族を船に乗せて京都方面に逃走させるのを
阻止するためだったのでしょうね。
今は中国船からの密航者が入ってくるくらいですね。
お陰で江戸の別嬪さんは外に出ることなく純粋培養されたんですかね(笑)
自然の地形を利用するのは兵法の基本ですが、こんな感じでご説明頂くと理解が深まりますね。
へ~
今でも道が残るんですね。
当時はこんなに沿道に家は無かったろうなあ[E:happy01]
海が見えたかも[E:flair]
いはちさん
本文にあるように江戸時代は江戸川は厳しく制限されていましたからね
今井の渡しも、上流にある矢切の渡しも厳重に管理されていました。
現代では人間の行動範囲も広がりましたので、考えられないことですね
餌釣師さん
こうして郷土史を調べてみると、昔の武士が地形を上手く活用して
いたことが良く理解できます。あまり高低差のないと思っていた市内の
地形も意外と高低差がある事に驚きました。
家康は醜女好きで知られていますからね、
逆に江戸の街は醜女の純粋培養になってしまったかもしれません(笑)
鉄路迷さん
周囲は塩田も広がっていたはずですので、海が見えたのではないかと
思います。こうした道が残っているというのは私もつい最近まで
知りませんでした
まさに旧街道然とした道筋ですね
こういう車が通れそうもない道が
都会ではほとんどなくなってきてていますから・・・
この位の道幅なら家の玄関にいながら
向かいの奥さんとおしゃべりできそうです(爆)
あさとさん
市川市って結構、昔ながらの道が多いのでこういう狭い道も
結構多かったりします。
ですのでそれと並行して広いバイパスができていたりします。