曽谷貝塚は国分川左岸の標高20~25mの下総台地にある、縄文時代中期末から後期末にかけての馬蹄形貝塚である。広さは東西210m、南北240mに及び単独の馬蹄形貝塚としては日本最大の広さとなっている。

1893年(明治26年)に山崎直方によって初めて発掘され以降、何度も発掘が繰り返され、埋葬人骨や竪穴式住居址が発見されている。1939年(昭和14年)に山内清男が、これまでに縄文時代の発掘には見られない様式の土器を発見し「曾谷式」と命名した。ところが肝心の土器が行方不明となり、公表されなかった。そのため長らくその存在が疑問視されていたが、1987年(昭和62年)に改めて曾谷式土器が発掘され、山内の発掘の正当性が証明される事となった。
曽谷貝塚は市内でも地価の高く、市の中心部であるJR本八幡駅アクセスが良いこともあり、高度成長時代には宅地化が進みその保存が危機的状況に陥ったことがあった。しかし1979年(昭和54年)に、曽谷貝塚の約42,100㎡が国の史跡に指定され、宅地化をまぬがれることとなった。現在も市の教育委員会により発掘が進められている
| 施設名称:曽谷貝塚 所 在 地:市川市曽谷2-500-1 入 場 料:無料 駐 車 場:無 アクセス:JR総武線本八幡駅北口から高塚行きバス ->「曽谷」下車徒歩10分 ※データは2011年11月現在のものです |

これまで紹介した市内の三大貝塚の位置関係はこのような感じです
(画像クリックで拡大表示します)

史跡であることを示す石碑が建てられています。

一角は白い柵で仕切られて花畑になっています。
![_digital_images_2011_11_07_imgp0018[1]](https://seiryuh.org/wp/wp-content/themes/simplicity2/images/1x1.trans.gif)
付近は住宅地が接近しています。言い方を変えれば身近な遺跡ということになりましょうか

それでも意外と広さは結構あります。
![_digital_images_2011_11_07_imgp0024[1]曽谷貝塚 - 市川の歴史・観光 Vol.04 -](https://seiryuh.org/wp/wp-content/themes/simplicity2/images/1x1.trans.gif)
貝塚内ではモグラ君がこんなものを作っておりました(笑)

ということは
地図だけで考えますと現在の千葉の東京湾沿岸部は
昔は海だったんでしょうね
ネズミの国が最近まで海だったのはしっていますが・・・
あさとさん
市川市のほぼ中央を横切るJR総武線の線路の辺りは
奈良時代は海岸線であったことが文献に残っています。
ですので縄文時代もやはり市の南半分は海だったようです。
江戸時代の古地図を見ると、中洲が成長してだいぶ市の南部の
陸地が形成されていることが確認できます。