以前に市川市内の桜の名所として、里見公園を紹介したことがある。その際は、この地に戦時中には陸軍操練場があった事について書いたが、もともとはこの場所は国府台城と言う城があった場所である。本日はそんな国府台城にスポットを当てていきたいと思う。
文明10年(1478年)12月、千葉氏で内紛が起き、許我公方派の千葉孝胤と、関東管領上杉派の千葉実胤が争う事となった。上杉家の家臣であった太田道灌が千葉実胤を援け仮陣を構えたのが国府台であった。そして翌年に臼井城の千葉孝胤を攻める際、道灌の弟太田資忠らが仮陣のあった地に築いたのが国府台城である
高台から太日川(現、江戸川)を挟んで江戸の地を一望できる国府台城は要所として戦国武将に認知され後北条氏、千葉氏、里見氏、太田氏、上杉氏らによって度々争奪戦が繰り返された。そのなかでも有名なのが二度にわたる国府台合戦である。1590年(天正18年)の小田原征伐に関する一連の戦いで徳川家康が勝利すると、国府台城の所有は北条氏から徳川氏へと移る。その後、家康が江戸入府を果たすと江戸を一望できる国府台城は、防衛の観点から廃城となった。
現在は前述のように、この地は里見公園と公園になっている。しかし古墳時代に作られた明戸古墳の石棺が残されたり、里見氏の武将を祭る石碑が建っていたりと、史跡がいくつか残っている。草花が綺麗な公園でそちらに目を奪われがちではあるが、こういった歴史的な観点で見てみるのも面白いものであると思う。
施設名称:里見公園 所 在 地:千葉県市川市国府台3-9 入 場 料:無料 駐 車 場:無料(40台分) アクセス:京成電鉄国府台駅から徒歩約15分 JR総武線市川駅から松戸車庫行きバス ->「国立病院」下車徒歩約3分 ※データは2011年11月現在のものです |
国府台城跡は江戸川沿いの市の北部になります。
(画像クリックで拡大表示します)
国府台城跡は現在は里見公園になっています。
噴水や花がきれいに整備されています。
バラがたくさん植えられています。
公園内にはあちこちに城壁跡が残っています。
公園から東京方面を見ると江戸川を挟んで東京が一望できます。当時の武将もこんな感じで見ていたのでしょうか
モヤがかかっていますが、スカイツリーも見えます。
このあたりは市川市で最も標高の高い場所です。
こちらの小高い場所は6世紀後半の史跡の明戸古墳です。
国府台城築城の際に太田道灌がこの石棺を発見されたと言われています。
こちらは羅漢の井。里見氏一族が国府台城に布陣した際の飲用水として使用したといわれていますが、現在では飲用には向きません
京成電車の国府台からは少し離れるんですね。
すぐ近くかと思っていました。
松戸からの方が便利そうですね。
確かに江戸が一望出来ますな。
市川市は縦に移動する事が滅多に無かったので
ここには行った事がありません。
里見氏ゆかりの地だったんですか~。
市川で一番高い所って標高何メートルなのでしょう?
私のパソコンだと字が小さくて・・・
標高50.1mと見えますね
少なくとも次の海洋性地震の時はここを目指さないといけませんね
ま~くさんと知りあわなければ市川ってところの存在も知らなかったんですが
大変勉強になってます
当時の武将が現代の風景を見たら、何を思うでしょうか(^_^;
井戸が残っているのに、既に飲用に適さない状態になって
いるとは残念ですね。
廃城とは何とも勿体無い。
江戸城にとっては邪魔なお城だったんですね。
誰か身内を住ませておけばいいのにとも思ってしまいますが、身内すら信用なら無い時代ですからねぇ。
まぁ後は攻略されて敵方に落ちた場合を考えたのかな?
まぁ”何とも勿体無い”と思ってしまうのは、一庶民の考え方かもしれませんね。
???さん
京成線の国府台駅から徒歩15分ですので駅からは少し距離があります。
ただ松戸駅からですと相当な距離がありますのでやはり
国府台駅が一番便利だと思います。
いはちさん
市川には里見氏にゆかりのある史跡がいくつか残っています。
そんな史跡を巡ってみるのもなかなか楽しいです。
市川市最高標高は30.1mになります。
写真では少し見にくかったですね
あさとさん
確かに「三」が「五」のようにも見えますね
おっしゃるように海洋性地震の際にはここが一番市内では
安全な場所になると思います。
ただ市の地図でわかるように、市のスミにあるのでたどり着くまでが
大変かもしれません(^_^;)
くぅねるさん
羅漢の井は、市のウェブサイトにも大きな文字で飲用に適しませんと
書かれていますので、残念ながら飲まないほうがよさそうです。
でもこの井戸はポンプを使って汲み上げているわけでも
近くに水源があるわけでもないのに、コンコンとわき続けるのは不思議です。
餌釣師さん
今度、渡し船について記事にしますが、江戸川は江戸幕府によって
防衛の要衝でしたので、その川沿いに建つ城は目障りな
存在だったのでしょうね。
おっしゃる通り身内や家臣であっても裏切りが横行した時代ですので
用心深い家康が、そんな城の存在を許さなかったのでしょう。
江戸川の上流には以前にも記事にした関宿城がありましたので
同じ川沿いに2つも城はいらないという考えもあったのかと思います
でも現代に城が残っていたらと、現代人としては考えてしまいますね