混迷するタイ政局、経緯のおさらい

本ブログでも在タイ日本大使館からの緊急通知メールを転載して、情報発信をしてきた。今回の騒動の引金となったのは、現在のインラック首相政権がタクシン元首相の帰国につながる恩赦法の成立を目指した事にある。この恩赦法の審議が下院で開始されると、タイのメディアではタクシン元首相が帰国の準備を進めていると大きく報道した。政治的関心が強いバンコク都民はこのニュースにはみんな釘づけになって見ていたようである。

この事が反タクシン派に火を付ける事になる。恩赦法成立阻止を名目にバンコクでデモを繰り返すことになる。結局、恩赦法は下院で強硬採決可決されたものの、上院で否決され廃案となった。これでタクシン氏の帰国への道は閉ざされ、デモの名目もなくなったはずである。しかし復権を目論む民主党の一部が、名目を恩赦法阻止から現政権打倒にすり替え継続するよう扇動し今回の混沌とした状況を生み出している
背景にあるのは言うまでもなく2006年の軍事クーデターをはじめとする政治的混乱である。しかし小生も含めて事の経緯について忘れている部分もあるかと思うので、今回は改めて総選挙をキーに整理しておこうと思う。

<2001年1月総選挙(定数:500)>
タイ愛国党 258
民主党   126
国民党    38 (以下割愛)
日本と同じ小選挙区比例代表制が導入され、タイ愛国党が躍進。これまで政権与党であった民主党が下野し、タクシン氏が首相に就任。タクシン政権は市場経済の自由化を推進し、一方でタイ東北部の農村を手厚く保護した。前者は自由経済の名のもとに過度な購買意欲を駆り立て人々が次々と借金をして買い物をするようになったとの批判を浴び後の反タクシン派を生む源泉となる。一方で手厚くほどされた農民層では絶対的な支持基盤を確立する事に成功する。

<2005年2月総選挙(定数:500)>
・タイ愛国党 377
・民主党    96 (以下割愛)
民主党は大敗を受けて党首が交代し、アピシット氏が党首に就任。タイ愛国党は絶対的安定多数を得たが、この年の終盤からソンティ・リムトーンクンがタクシン首相の独裁気質、不正蓄財疑惑を批判し反タクシン運動を開始する。翌年にはソンティ・リムトーンクンは民主市民連合を結成し、後に黄シャツ集団の母体となっていく。

<2006年4月総選挙(定数:500)>
・タイ愛国党 460
・欠員(空席)  40
デモの混乱の中、タクシン政権が国民の信を問うとして議会を解散・総選挙を実施。勝ち目のない民主党、タイ国民党、マハーチョン党の野党3党が選挙をボイコットするという異例の中で実施された。しかしプミポン国王が「一党、一人のリーダーの選出では民主選挙とは言えない」発言したことから憲法裁判所は、この裁判を無効とした。

選挙のやり直しを模索する中、2006年9月にタクシン首相は国連総会に参加。しかしその最中に軍事クーデターが決行され、タクシン首相は失脚しスラユット・チュラーノン陸軍大将を首班とする暫定政権が発足する。2007年にはタイの18番目の憲法となる現行憲法を制定する。

<2007年12月総選挙(定数:480)>
国民の力党 233 ※タイ愛国党の後進
・民主党   164 (以下割愛)
第1党となった、国民の力党党首のサマックが首相に就任する。サマック政権をタクシン氏の傀儡政権だとする反タクシン派の民主市民連合(黄シャツ)とサマック政権を支持派の反独裁民主戦線(赤シャツ)が衝突するなどデモは収束の気配を見せない。そんな中、料理番組に出演し出演料を受領した事が、憲法に定められた「首相の副業禁止」に抵触するとの判決を受け2008年9月にサマックは首相を辞任。

サマックに代わってソムチャーイが首相に就任するも、民主市民連合反独裁民主戦線の衝突は沈静化せず首相府やスワンナプーム国際空港やドンムアン国際空港が占拠され首都機能が麻痺する。そんな最中に裁判所が国民の力党に解党処分を出した事でソムチャーイ政権は頓挫、第2党である民主党が軍部をバックに選挙を経ないままに政権を樹立しアピシット氏が首相に就任する。アピシット首相は選挙をしても勝算がないことから議会を解散せず任期満了近くまで政権を担う事になる。

<2011年7月総選挙(定数:500)>
タイ貢献党   265 ※タイ愛国党・市民の力党の後進
タイ国民発展党  19
・国家貢献党    7
・パランチョン党  7
・マハチョン党   1 ※ここまで連立与党
・民主党     159
・タイ誇り党    34
・その他      8

過半数を確保し単独政権樹立可能なタイ貢献党であるが、政権基盤の強化のため中小4党との連立政権を樹立し、タクシン氏の末妹であるインラック氏がタイ初の女性首相となる。政権発足当初はバンコクの大洪水の対応でつまずいたが、政権運営に慣れた昨今では経済が順調な事もあり高い支持率を維持している。

すでにタクシン氏が亡命してから7年がたつが、タイ政局は現在でもタクシン氏を巡って動いている。極端な言い方をすれば、タクシン氏に対する好き嫌いで動いているとも言える。感情的な部分が根っこにあるだけに、根本的な解決は難しい部分もあると思うが、2008年のような混乱に陥る事だけは避けて欲しいと痛切に願う次第である。

そんな中、12月5日にはプミポン国王が86歳の誕生日を迎える。誕生日前日には国民のへのメッセージが公表されるが通例となっている。過去にも国王のお言葉が政治を動かした事もあるだけに、双方の和解に向けたメッセージがあるかについても注目である。


4 responses on 混迷するタイ政局、経緯のおさらい

  1. 餌釣師 より:

    まとめて頂いてありがとうございます。
    騒動が始まった頃は「タイ」の”タ”の字も興味無かったんですけどね(笑)
    まさかこんなに関わるとは思いませでした。
    まぁそれを言うならMKさんの方か(笑)
    2001年に今の自分をお互い予想できなかったですよね。

  2. あさと より:

    タイは昔から
    頻度と程度の差こそあれ
    こういうことを繰り返してきています
    そこの根底には
    いつの時代にもなくならない
    富の偏りですね
    ただ
    洪水の時と違って
    今回は他国の資産の被害がどうとかが絡みませんので
    外国メディアも面白おかしく盛ることはないようですね
    私が行く年末には
    亡くなるまで行かなくても沈静化してほしいです

  3. ま~く より:

    餌釣師さん
    2001年には今の自分がこう言う状況になっているとは全く
    予想できませんでした。中国ならまだしもタイというのは全く
    想定外です
    軍事クーデター以降は日本の報道をそれなりに注目して見て
    いたのですが、それ以前に関しては曖昧な部分もあるので
    今回はこうしてまとめてみました

  4. ま~く より:

    あさとさん
    現行憲法が18番目という点だけを見ても、タイで如何に
    こう言う事が繰り返されてきたのかが分かりますよね。
    タイ東北部では今でもライフラインのインフラも未発達な状況
    です。そんな所に一村一製品運動などを通じて農村の振興を
    図り生活水準が向上した人からすればタクシン氏は英雄のように
    映るでしょうし、根強い支持があるのも納得できます。
    ただ政治が民衆を煽るような手段ではなく、民主国家ならば
    議会での議論を通じての解決を図って欲しいものです。事態の
    解決の望みが、国王のお言葉だけと言うのはさびしいですね。
    いずれにしても一刻も早い事態収拾が望まれますね


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